2011年6月13日月曜日

いかに送るか、送られるか

いろんな用事があった一時帰国もあと数日。

最終盤に来て、なんとお通夜に行ってきました。

親戚に預けてあった礼服を引っ張りだし、黒い靴を借りてなんとか参列。

どえらいタイミングで人が亡くなるもんだというか、日本にいるときでよかったなあという不思議なめぐり合わせでした。


都内のセレモニーホールに、故人の近しい親戚・知人だけが集まる質素な通夜でした。

読経+焼香の仏式が基本ではありましたが、そのあとに女性司会者が故人の人生を振り返る2~3分の語りをしたのがユニークでした。

故人の姿や暮らしを参列者全員が同時に思い出し、それぞれの心の中で見送るという気持ちになり、なにかすっと腹に落ちたようなそんなセレモニーでした。

司会者は事前に家族から聞き取った情報をもとに語りの構成を考えたそうですが、単なる事実の羅列ではなく、子供をはじめ周囲の人たちに残していったものは何かみたいなことを意識しながらのストーリーになっていたと思います。

それを聞きながら参列者が故人の人物像を一緒に心に浮かべ、見送る。 という感じがうまくできていたと思います。

さらに、参列者控室(=セレモニー後の食事会場)には故人の幼時から晩年までの写真、書き遺した文章、好きだった本などが並べられ、参列者がそれを見ながら思い出話に花を咲かせていました。

この日の様子を見たとき私は、セレモニーはこれで十分と思いました。

つまり、これは通夜だったのですが、シンプルでも内容のあるセレモニーがちゃんとできたんだから、改めて葬式などしなくても十分じゃないかと思ったのです。

もちろん今回そうすべきだったという話ではなく、自分が死んだときはこれくらいで十分という意味です。


昔の人々は村とか町内といった小さな地域社会で暮らしていましたから、通夜に顔を出しておいて、翌日には葬式にも出るというのが無理なくできました。

でも現代の参列者というのは広域化した社会に散らばって住んでいるため、二度も足を運ぶというのはなかなか大変なことです。

参列者は、申し訳ないんだが忙しいので片方しか出られないと思う。

喪主は、何度も足を運んでもらって申し訳ないと思う。

そんなにまでして通夜と葬式、両方をやる意味ってどれくらいあるんでしょうね?


もっと言えば、従来のただお経をあげて焼香するだけという通夜と比べて、中身のあるセレモニーをやる(やれる)ようになった今、「改めて葬式をやる」ということの意味が薄れつつあるんじゃないか。

それが私の感想です。



皆さんは、家族を見送るときどんなふうにやりたいですか?


自分はどういうふうに見送られたいと思いますか?




6/10のトレード結果です。 
 
GBP/USD

200SMA: 下降
フェーズ: 下降フェニックス
損  益: なし

ボックス内におさまる一日。 エントリーチャンスありませんでした。


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